1992年、フランシス・フクヤマの名著『歴史の終わり』が著されたのは、「共産主義体制の崩壊」と「東西冷戦の終結」を背景とする高揚感につつまれた時代であった。
ベルリンの壁崩壊や東欧革命、その後のソビエト連邦の解体により、長年続いた米ソ対立および資本主義と共産主義のイデオロギー闘争に決着がつき、ファシズムや共産主義という対抗イデオロギーが消滅したことで、自由民主主義と市場経済が人類の政治・経済体制の最終形として残ったとする西洋を中心としたリベラリズムなどの価値観を共有する西側諸国の勝利宣言でもあった。
そんな時代の空気を大きく変えたのが2001年に発生した「9.11 米国同時多発テロ」だろう。
世界の安全保障体制や国際政治の構造、そして人々の日常生活を根底から変容させる歴史的な転換点であった。
米国によるアフガニスタン戦争やイラク戦争など、中東地域を中心とした大規模な軍事介入といった「テロとの戦い」が始まり、一時的には大国間においても協力的・協調的な空気が形成される。
また、国家による安全確保の権限が急拡大し、プライバシーや市民の自由とのバランスが問われるようになったほか、イスラム教徒や移民に対する偏見・差別の増加など、その爪痕は社会の分断や不信感を生み出す端緒となった。
あの時、旅客機がニューヨークの高層ビルを2棟倒壊させ、郊外の米国防総省に突っ込む様子が映し出された映像は、今もなお記憶に焼き付いている。中継の生々しさにもかかわらず現実からは浮遊したような感覚が恐怖感を増幅した。
あれから四半世紀。
世界はより混迷の度合いを深めているように思える。
『歴史の終わり』の時代にあった、希望ある明るい未来に向かいつつあるような空気感はもはや見当たらない。
民主主義の求心力低下と権威主義の台頭、AIの登場と情報化社会の進展、そして社会の分断を乗り越える知恵を、我々は見出していかなければならない。歴史は決して終わってなどはいない。
寛永3年(1626年)9月6日。ちょうど四百年前の秋。
京の町では、豪華絢爛な行列が繰り広げられた。
後水尾天皇が徳川秀忠・家光の招きを受け、御所を出て二条城まで行幸。その行列は参列者約9千人、馬540頭、牛車12台、輿470基にもおよぶ大規模なもので、先頭が二条城に着いたあとでも、御所からは続々と行列が出発したそうだ。五日間に渡り、贅を尽くした料理や、舞楽、蹴鞠、和歌や管弦、能楽など盛大なもてなしがなされ、街中では全国各地から集まった多くの見物人で沿道は埋め尽くされる。
その様子は「二条城行幸図屏風(泉屋博古館所蔵)」からも、祝い楽しむ人々の熱気が伝わる。
行幸とは天皇が内裏の外へ出て、民が天皇を直接拝することができる機会を指すが、歴史上それほど多い例があるわけではない。
とりわけ寛永行幸は、天皇が武家のもとを訪れる稀有なできごとであり、長い戦乱の世が終わり、対立していた朝廷と幕府の融和を象徴するものだ。
古来より日本においては、宗教的・伝統的な正統性を持つ「権威」と、実際の政治・軍事を動かす「実質的な権力」が、分立することでバランスを保ちながら共存するという独自の統治構造を有してきた。
その両者、伝統的権威である「天皇・公家」と政治権力を司る「武家」が結びつくことにより、世に対し天下太平の時代の訪れを高らかに示したものだと言える。
そして、こうした統治の安定はその後の文化や経済への発展の礎となる。
饗応には全国各地の名産品が京に集められたほか、茶の湯や華、書画など文化人が集まるサロンが形成されるきっかけともなった。また、市井の人々の間での交流も行幸を通じて広がったそうだ。
こうして、身分や地域を超えた人々のつながりの強まることで共生社会を築いたことこそが、三百年に渡る江戸の太平の礎となり、我が国のその後にも大きな影響を与えることにつながる。
それから四百年。今、それを深く掘り下げることの意義はそこにあるのではないだろうか。
寛永行幸四百年祭公式サイトはこちら (別ウインドウで開く)

二条城行幸図屏風
9月1日は「防災の日」。関東大震災の発生した日であり、暦の雑節「二百十日(にひゃくとおか)」にあたる日で古来より台風の到来しやすい時期であることに由来をする。
時の経過とともに忘れ去られがちな自然災害の経験を思い起こし、「災害への備えを怠らないように」との戒めも込められ、1960年(昭和35年)に制定されたものだ。
だが今年は、忘れるどころか自然災害の恐ろしさを相次いで目の前に突き付けられながら、その日を迎えることとなった。
令和8年熊本地震をはじめ、千葉や北陸において豪雨による甚大な浸水被害が各地で生じている。
国外ではネパール・中国国境で氷河の崩落による凄まじい土石流の被害が拡大をしている。
被災をされたすべての方々に心よりお見舞い申し上げる。
そんな中、過日、本市から熊本地震への応援に派遣された職員から現地の様子を報告いただく機会を得た。
京都府の対口支援先である宇土市にて、8月10日から15日まで、京都府からの派遣チームの一員として罹災証明・被災証明の発行業務に携わってくれた。タイトなスケジュールの中での派遣に積極的に参加してくれた職員に感謝申し上げたい。
報告会では、窓口での相談の状況や混雑時の受付体制、相談を受ける中での困難事例、相談者へ寄り添う姿勢の重要性など業務を通じて明らかとなった課題に加えて、余震の状況やバックヤードの支援体制、市民への情報伝達手段など、現地にいたからこそ感じたことなどを報告してくれた。こうした点は、今後、本市の災害への備えとして大きな財産になるはずだ。
併せて、災害時にのしかかる自治体職員への負担の大きさについても語ってくれた。通常業務に加えての災害対応、発災から休みなしでの長時間勤務、自宅が全壊するなかでの業務など、お聞きをしていて胸が締め付けられる思いだ。
同じ自治体の仲間としてできることがないか。本市として何ができるか。引き続き考え、支えとなっていきたい。

災害派遣報告会のようす
世界は、冷戦の終結からおよそ三十年余りが経過した現在は歴史の転換点にあるように思える。
国際政治史が専門の細谷雄一慶応大学教授は、冷戦終焉後からロシアによるウクライナ侵攻までを「危機の三十年」と位置づける。
民主主義や新自由主義、そしてグローバリズムが世界中で浸透し、平和で協調的な新しい国際秩序が成立するであろうとの楽観論や希望が浸透していった最初の十五年から、いかにして大国間対立と民主主義の後退が露わとなる次の十五年へと転落していったのか。そのプロセスをユートピアニズムとリアリズムの相克という視座から分析する。(『危機の三十年 冷戦後秩序はなぜ崩壊したか(新潮選書)』)
そして、ユートピア主義の根底にある合理主義的で啓蒙主義的な思考によってリベラルな価値を拡大することへの強い指向性が、中国やロシアといった権威主義的な大国の反発や不満、警戒感といった感情を喚起した結果、現在の危機を招いたと指摘をする。
そして、私たちは今、歴史の歯車がまた一つ逆回転しようとしている場面に遭遇しているのではないだろうか。
先日、米国トランプ政権によって国際刑事裁判所(ICC)のトップを務める赤根智子所長ら2人を制裁対象に加えると発表した。
赤根氏は記者会見で、国際法に従って活動する司法機関は法の支配の重要な一部であり、今回の制裁は「ICCのみの問題ではなく、法の支配の危機だ」と強く訴えた。
いうまでもなく「法の支配」とは、国家など権力者であっても、より高次で正しい法によって拘束され、恣意的な権力行使が許されないという自由で民主的な社会の根幹をなす原則だ。
とりわけ、弱肉強食の時代に逆戻りしているような混沌とした世界情勢の中において、軍事力などハードパワーによって存在感や影響力を示すことができない我が国にとっては、国の生存を担保する生命線ともいえる価値である。
果たして、そんな大切な価値すらユートピアニズムだと冷笑される時代になってしまったのだろうか。
正義は常にこれと対極にあるものに優越しなければならない/Justice will and should prevail.
赤根氏はその信念を貫くと会見で力強く語った。その思いは我が国の国益にも資するはずだ。私たちも連帯しなければならない。
この盆休みに、ホセ・オルテガ・イ・ガセットが1930年に著した『大衆の反逆(寺田和夫訳/中公クラシックス)』を読み返した。
オルテガはこの著作の中で、「大衆」を「みずからを、特別な理由によって―よいとも悪いとも―評価しようとせず、自分が《みんなと同じ》だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持になる、そのような人々全部である。」と定義した。
それは決して身分や階級を指すのではなく、権利や恩恵だけを主張し、自分に厳しい規律や義務を課さない精神性や凡庸であることへの誇り、先人たちが築いた文明の基盤を、苦労なく自然にそこにあるものとして消費し尽くす「お坊ちゃん気質」であると厳しく批判。そんな「大衆」が社会の主役に躍り出て、自分たちの無理解や都合の良さをそのまま社会に押し付けている状態を「反逆」と呼び警鐘を鳴らした。
二つの大戦の戦間期、社会の近代化と大規模化の結果、人々の価値観や行動様式が同質的で画一的なものになるなか、マスメディアの普及と発達がそれらを加速し、全体主義の台頭を許したのではないか。そんな文脈の中で「大衆」への厳しい目は注がれた。
戦後、自由民主主義体制による社会の安定や人々の価値観やニーズ、アイデンティティが多様化する中、「大衆」への関心は徐々に失われていった。
しかし、社会に渦巻く同調圧力や反知性主義、ネット上に蔓延するキャンセルカルチャー、衰退のなかの現状維持バイアス、過剰なサービスや100%の安全を要求するクレーマー体質の散見など、現代社会で生じている現象を目の当たりにするとき、オルテガが鳴らした警鐘は、いまなお決して色あせるものではない。
オルテガなら今の日本を「物質的に豊かな先進国に生まれ育ち、過去の遺産に依存しながら、自分の権利だけを主張して精神的に幼児化していく社会」だと斬り捨てたうえで、「自分の頭で深く考え、社会に対して主体的に責任を引き受ける個人たれ」と喝破するのではないだろうか。
7月30日から8月2日にかけて『若葉カップ全国小学生バドミントン大会』の熱戦が繰り広げられた。会場となった西山公園体育館は熱気に包まれ、小学生たちの笑顔と涙であふれた。
第42回を数えたこの大会は、いまや小学生バドミントンの甲子園として位置づけられ、オリンピック代表など有数のトップ選手を送り出している。
結果は、男子の部では岡垣ジュニア(福岡県)が、女子の部ではワイズワン(東京都)がそれぞれ2連覇を飾ることとなった。
大会期間中には、日本バドミントン協会による「Rally for Earth」と題したイベントも開催され、リオ五輪バドミントン男女混合ダブルスで入賞された栗原文音選手によるクリニックや元競泳日本代表としてアトランタ五輪に出場された井本直歩子選手によるサステナビリティ学習の機会などが設けられ、多くの小学生たちが参加してくれた。協会からは村井満会長も会場に駆けつけ、温かい声援を送っていただいた。
大会直前に発生した熊本地震の影響で参加の可否を心配していた熊本県からも、おぐにジュニアと砂取ジュニアの2チームが無事に参加。予定をしていた男女計96チームすべての参加を得ることができた。
そんな熊本への思いも込めて、足羽ジュニア(福井県)キャプテン渡邉心望(みらい)さんが、心にグッと迫る素晴らしい選手宣誓をしてくれたので、ここに全文を記したい。
宣誓
私たちには、時に厳しく、熱く指導してくれるコーチがいます。
私たちには、どんな時も寄り添い、応援してくれる家族がいます。
私たちには、つらい練習も共に乗り越え、励まし合える仲間がいます。
たくさんの人の支えと、大好きなバドミントンができる環境に感謝し、仲間を信じて、心を一つに一生懸命戦い抜くことを誓います。
そして、7月28日に発生した熊本地震で被災された皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
私たちの全力プレーで勇気や希望、そして笑顔を届けられるよう頑張ります。
その思いはきっと被災地に届いたに違いない。
第42回若葉カップ全国小学生バドミントン大会 選手宣誓のようす
物理学者の金子邦彦さんによれば、生命は基本的な性質として頑健性と可塑性を有している。
頑健性とは環境が変わってもほぼ同じものができることを意味し、そのことゆえに生命は安定性を有することができる。一方、可塑性は外界に応じて変化することであり、これは一種の不安定性につながる。これら相反して見える二つの性質を両立させているところに生命システムの特性があるそうだ(2025年1月4日付 朝日新聞)。 さらに、この頑健性と可塑性が併存していることが生物の進化に大きな役割を果たす。
安定した環境下では無駄はなくなり可塑性は失われ、頑健性は高まる傾向となる。しかし、そうすると環境のわずかな変化に耐えることができず死滅してしまうリスクを負うこととなり、そのバランスが生命の維持には欠かせない。
細胞の中にあるDNAや遺伝情報の働きが、時間とともに細かく動いたり、同じ条件の細胞の間でも少しずつばらついたりする現象のことを遺伝子の「ゆらぎ」と呼ぶ。
「ゆらぎ」とは一種のノイズであり、小さいほうが安定性は高まるものの、「ゆらぎ」が大きいほうが新しい形質へと進化しやすくそのスピードも速くなることが実験と理論からわかっている。
すなわち「ゆらぎ」無き均一性はリスクでもあるということだ。
このことは組織においても同様のことが言えるのではなかろうか。
特に行政にとっては、継続的に事業を運営し、施策を行うことは予見可能性を高める意味でも極めて重要である。事実、行政の事業や施策にはそうした長年にわたり取り組んでいるものが多数を占める。どちらかと言えば頑健性の高い組織だと言って間違いない。もちろん、安定していることは決して悪いことではない。
一方、社会環境が変化すれば、当然のことながら現状の取り組みが最適解である可能性はうすれるし、場合によってはマイナスの効果を生み出すことすらあり得る。だからこそ可塑性もまた求められる。
そのためには社会の中で生じている様々な「ゆらぎ」を見逃さないようにしなければならない。
変化によって生じる軋(きし)みや歪み、ほんの小さな兆しに対する感受性を持つことが大切になる。
ここにリーダーとしての市長の役割があるのではないか、と最近考えている。組織の中で常にノイズを発する存在でいたい。
4年に一度の祭典、ワールドカップ北中米大会が幕を閉じた。
今大会でも数々のドラマティックなゲーム展開、華麗なパスワーク、驚嘆を禁じ得ない個のプレーで私たちを魅了してくれた。ひと月を超える長い旅路を終えた選手たちに敬意を表したい。
いま、終わってしまったという虚脱感とやっと終わったという安堵感の入り混じった複雑な気分に包まれている。いまだ頭の中では烏が飛び回っているが。
結果は、スペインが延長の激戦を制し、南アフリカ大会以来2度目のワールドカップ制覇となった。
敗れたアルゼンチンも、グループリーグ初戦のメッシのハットトリックから始まり、劇的な逆転劇などサッカーの醍醐味を味わわせてくれた。
三位決定戦を戦ったイングランドとフランスもほぼノーガードでの打ち合いを演じ、ゴールを決めきる個の力とチームの個性が現れた攻撃スタイルで最後まで楽しませてくれた。
もちろん、残念な結果ではあったが日本代表はこれまでの大会とは違う風格を見せつけてくれた。
今ワールドカップは、ピッチ外でも何かと耳目を集める大会にもなった。
ダイナミック-プライシングの導入によるチケット価格の高騰やハーフタイムショーの導入など過度な商業主義の導入、イラン代表チームへの行動制限や出場停止処分をめぐる露骨な政治の介入、SNSによる監督や選手への誹謗中傷の増大やバッシングの激化など、盛り上がりと華やかさと対照的に負の側面がこれまでの大会以上に目についたことも事実だ。
これまでから絶えない人種差別的な言動も問題になった。
そのことについて聞かれたスペインのヤマル選手の毅然とした答えが、すべての負の要素を蹴散らしてしまうくらいに輝いていた。
「もし、サッカーに意義があるとしたら、それは社会に融和をもたらすこと。それがサッカーの本質だ。フランスやスペイン以上に、その好例はない」(2026年7月21日付け朝日新聞より)
この19歳の若者の言葉に、果たして誰が反論できるだろうか。
Viva football!
誰も世界中が愛するサッカーを汚すことはできない。
二年前の「平和を考える市民フォーラム’24」の様子。いわさきちひろさんのお孫さんである松本春野さんにご講演いただきました。
現代人が1日に受け取る情報量は、江戸時代の1年分に相当するそうだ。
個人の処理能力をはるかに超えるほどの膨大な情報がインターネットやSNS、メディアなどを通じて絶えず氾濫しており、私たちの日常生活では「情報の洪水」が押し寄せている。
最近では、有用無用や真偽など情報の選別に高い負荷がかかり処理能力がパンクし、心理的なストレスや疲弊感を招くことで判断力が逆に低下するなど社会全体に悪影響を及ぼしているとも指摘されている。
かつて、情報は取りに行くものであったのが、いまや情報は向こうからやってくる。
そんな状況に声を大にして言いたいことがある。
連日、ワールドカップ2026の熱戦が繰り広げられている。サッカーファンとしては楽しみが絶えない季節の到来だ。
今大会は参加国がこれまでの32か国から48か国へと増えたこともあり、グループリーグから試合数も増加。決勝リーグへも32チームが出場し、原稿を書いている時点ではベスト8が出そろい準々決勝が始まろうとしている。
さらに北中米三ヶ国での開催。時差の関係もあり、ゲーム開始が深夜であったり早朝であったり、はたまた仕事の真っ最中であったり。なかなかライブでの視聴は困難でもある(もちろん日本代表戦だけは頑張りましたよ)。
見るべきゲームが増えたことはうれしいかぎりだが、結果や経過に関してはサブスクのハイライトや夜のTV番組で追うのがやっと。
そうなると、試合の結果を知ってしまうことだけは何としでも避けたいのだ。結果が分かっていて追いかけるハイライトほどつまらないものはない。しかし今日、これがなかなか至難の業なのだ。
いまや油断してスマホの画面をチラッとでも見ようものなら…。
かくて私も「情報の洪水」のあわれな被害者に成り下がってしまう。
サッカーの試合の結果だけは安易には伝えないで!!
「レコンキスタ=失地回復」は、8世紀初頭から15年近く続いたイベリア半島(現在のスペインやポルトガル)におけるキリスト教徒によるイスラム教徒からの国土奪還の運動を指す。
世界史では、単なる宗教対立を超えて、長期間にわたりキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の三宗教が寛容に交わるという混沌と調和が生み出した文化の華やかさや、その後の大航海時代へと至る現代国家の形成やグローバル化のルーツとして注目されてきた。
失われた多様で豊かな異文化世界への記憶が結びつき喚起される郷愁やロマンと歴史の積み重ねが生み出したルサンチマン(恨み・怨恨・憤り)というアンビバレントな感情を想起させる言葉でもある。
混沌とする今日の国際情勢の根底に流れる通奏低音のような潮流には「レコンキスタ=失地回復」への思いが渦巻いている。
ジャーナリスト・川北省吾氏の『新書 現代世界史 なぜ「力こそ正義」はよみがえったのか(講談社現代新書)』は綿密で膨大な取材に基づきそう主張する。
既存の国際秩序の機能不全や「力による現状変更」の常態化、大国間の覇権争いといった、今日生じている事態は、長い視座で観察すれば、アメリカ、ロシア、中国といった大国やグローバルサウス諸国など、それぞれが持つ「レコンキスタ」への強い意思が絡み合い生まれた結果である。
著者は言う。
われわれは今、力が信義をなぎ倒す荒れ野にいる。「強者は好きなように力を振るい、弱者は耐えるしかない」世界である。
その世界をどう生き抜いていくのか。我が国にとって直視すべき現実である。
料理とは待つこと。この言葉は真理だと思う。
火の通りを待ち、発酵の時間を愛しみ、味がなじむのを待つ。それは、単なる時間の経過ではなく、素材の旨味や栄養を最大限に引き出すための大切なプロセスでもある。
時おり、料理番組を観る。
美味しそうな料理やお酒のアテを観てレシピを参考にチャレンジしてみたりもする。たいていは上手くいかないのだが…。
そんな彼我のちがいをつぶさに観察してみると、「待てない」自分に突き当たる。
揚げ物を揚げていても、フライパンやオーブンで何かを焼いていても、じっと待てないのだ。
なぜかどうしても触りたくなる。見てみたくなる。
何か作業をしていないと不安が募る。何かをしてその不安を追い払いたい気持ちがムクムクと湧き上がる。
箸でつついたり、かき混ぜてみたり、ひっくり返してみたり、フタを開けてみたり。
かたや、料理上手はじっと「待てる」。ゆえに、焼き目がパリッとしたり、ムラなく火が通ったり、味がじっくりなじんだりする。
ここに食感や味深さの決定的なちがいをもたらす。多分。
とある料理番組にゲスト出演していた女優の羽田美智子さんは、玉ねぎのかき揚げが揚がるのをじっと見つめ、「ついつい、触りたくなるのよね」と笑いつつ、グッと我慢したのちにふとつぶやく。
人生も同じ。かき回さずに待てば、自然と流れていくことも多いのに。
かくも「待つこと」は、料理においても人生においても難しきことよ。
特別な出来事など起こらない。物語は単調にすすんでいく。
登場するのは何か得体の知れない生き物だったり、戯画化された少し気味の悪い人間だったり。
それでも、何故か魅かれてしまう不思議な感覚。
美術館「えき」KYOTOで開催されている『エドワード・ゴーリー 秘密のメッセージ展』を観た。
エドワード・ゴーリーは米国の絵本作家。
ナンセンスかつ残酷でブラックユーモアに満ちた世界観と、細い線で描かれたモノクロームで質感のあるペン画は、世界各国で支持され「大人の絵本」として愛されている。挿絵や表紙、舞台のデザイン、演劇やバレエのポスターなどを幅広く手掛けるなど多彩な才能を発揮し、熱心な蒐集家(コレクター)たちが夢中になっているそうだ。
例えば「敬虔な幼子」という作品。
主人公の3歳の男の子ヘンリー・クランプはとても敬虔なキリスト教徒。
そんな幼い子どもが異常なまでに純粋に、神への信心を求めながら、短い人生を全うする。
繊細で独特のタッチで描かれた子どもの顔は一見可愛らしいが、絵全体ではどこかに狂気が潜んでいる。
そうしたギャップこそが、単純に神への信仰を称賛するような説教臭さを排し、道徳や倫理観を脇へと押しやり、不思議で不条理な世界観を生み出す。
人生や物語についつい意味を求めがちな人間と、それに明確な答えを与えない無意味で非理性的な世界を一度覗いてみるのはいかがだろうか。
作品展はこの週末6月21日(日曜日)まで。

エドワード・ゴーリー 秘密のメッセージ展にて
少し風の強い日になった。
にもかかわらずJR長岡京駅東口にはたくさんの笑い声や歌声が響いた。
JR長岡京駅東口広場では平成29年度以降、ロータリーの再整備や自転車・歩行者の通行空間の安全対策、駅前に本社を置く村田製作所様のご協力によるゼロカーボン化といったリニューアル事業に取り組んできた。
今回、その総仕上げとして整備を進めてきた「にぎわい広場」のオープニングを迎えることとなった。
この広場整備は、国土交通省が奨める「ほこみち制度(歩行者利便増進道路)」を活用したもので、これまでデッドスペースとなっていた空間に人工芝によるみどりを創出するとともに、自由に移動できるテーブルベンチやパーゴラを設置した。
さらに、この空間の管理・運営を長岡京市商工会におまかせすることで、官民による賑わいづくりに取り組んでいこうとするものだ。
5月23日の式典・イベントから始まったオープニングウィークでは、地元の商工会員さんや近隣に多数所在する企業さん、サントリー京都ビール工場、バスケットボールチーム京都ハンナリーズなどのご協力で、キッチンカーやブース出店を多数いただき、多くの人でにぎわった。
また、地元出身メジャーバンドのLOCAL CONNECTや京都駅周辺で活躍されている路上アーティストの皆さんも大活躍。ファンの方から「長岡京市に初めてきたけど、良いところですね」とお声かけいただいたのは嬉しいかぎりだ。
広場の愛称を商工会が公募されたところ、長岡第十小学校6年生の大坂心遥(こはる)さん考案の「ガラシャてらす」という素敵な名前に決定されたことも発表された。
駅前を、単に通過する場所、通り過ぎる場所から、少しその場にいたくなるような居心地のよい空間へ。
「ガラシャてらす」という駅前に創り出されたほんの少しの余白を通じて、人々の息吹や鼓動が積み重なり、新たな賑わいが生まれることを期待している。
ガラシャてらすのオープニングイベント当日のようす

「国をひとつ、造ってご覧にいれます。」
『絢爛の法/川越宗一(新潮社)』は、明治維新から大日本帝国憲法の制定、そして国会の開設へと至る時代を生き抜いた国士たちの物語だ。
主人公は井上毅(こわし)。肥後熊本の決して大きくはない貧しい武家の出身でありながら、維新という時代の流れに翻弄されつつ、西欧諸国の法に精通し次第に頭角を現し、やがて大日本帝国憲法の起草に参画することとなる。その際の決意を語ったのが冒頭の言葉だ。
近代国家を築くというのは、国を治めるための法を一つひとつ造りあげ、法体系を構築することに他ならない。
「何人も害することなかれ」という極めて簡素な原理を守るために編まれた膨大な法が幾重に重なるさまは、丁寧な石垣を有する巨大な城郭のごとく絢爛と輝いて見える。だから法は美しい。
憲法は、「民権を最も貴重とする」ためのものである。その民権を最も脅かす国家の暴走を防ぐことこそが憲法の存在意義である。
一方、いまだ政府の組織も運営も定まらず、民心も落ち着かないなかで、西欧が認める立憲体制を導入することは現実としてどこまで許容されるのか。
毅の上司にあたる伊藤博文は言う。
「間違えば国民が死ぬ。国家が亡びる。戦争になれば他国の人間を殺す。そういう仕事をしているんだよ、俺たちは。」
毅も負けてはいない。
「政事に妥協や強引さが必要とは分かっているつもりです。かといって、人民の自由を保障する憲法を作るために、人民の自由を束縛するは矛盾です。」
封建的な幕藩体制を解体し、天皇を中心とした近代国家を造るという難事業に取り組んだ傑物たちの直向きな議論と矜持は、憲法のあり様が議論されている今日、大きな刺激となるに違いない。
「自分の活力であり、かつ自分を苦しめていくもの、かつ自分を喜ばせていくもの、全ての存在だった。」
試合後のインタビューで「サンガはどんな存在か?」と問われ、曺貴裁(チョウ・キジェ)監督はそう語った。
5月23日。サンガスタジアムby KYOCERAで行われたJ1百年構想リーグの最終節。
京都サンガは対V・ファーレン長崎戦を1-0で勝利。5年半にわたりチームを率い、J1昇格、そして上位で戦えるチームへと鍛え上げた曺監督にとってのラストゲームを勝利で飾ることができた。
高い位置での積極的なプレスによってボールを奪取・保持するなど、曺監督が築いてきたサンガの強さが垣間見えたゲームだったと思う。選手たちのハードワークも光った。一方、あれだけ自らのペースで試合を運びながらも、最後まで追加点を決め切れなかった。点差を広げることはできなかった。今シーズン、途中まで首位争いを繰り広げながらも、最後に失速したのは、このあたりの執念というか粘りの希薄さが要因としてあるのかもしれない。そして、そのことが今回、曺監督がチームを去る決断をされた背景にあるのではと、一人のサポーターとして邪推している。
これまで様々な場面で曺監督の言葉を直接、聞いたことがある。
きっと感受性が豊かな方でそれらを言語化するのが非常に巧みな方なのだろう。理想を追うだけではなく、時に結果を残すために現実的な解を模索し、口惜しさとともにそれを引き受ける覚悟が言葉の端々から感じられる。
経験に裏打ちされた説得力、冷静で論理的な分析力、課題から目をそらさない直球力。そんな数々の言葉で選手のみならず、私たちサポーターも鼓舞されてきた。
この5年あまり、全身全霊をかけ、サンガを見ていてワクワクするようなチームへと飛躍させてくれた曺監督に心より感謝したい。そして、さらに活躍されることを期待している。

「昭和100年記念式典」のようす
小説家の頭の中っていったいどうなっているんだろう?
思いつかないような面白い設定、筋書き、物語の展開を生み出す力はもちろん、魅力的な登場人物を創り出してしまうその感性に対して敬服の念を抱くばかり。
今年のMY読書は小説の当たり年のようだ。手に取る作品一つひとつの世界にどっぷりとはまり込む。
そんな数々の作品の中で、とってもキュートで、スマートで、ユニークで、とびきりにぶっ飛んでいる女性たちに出会った。彼女たちが登場する物語を少しご紹介しよう。きっと皆さんも虜になるに違いない。
まずは王道、宮島未奈の『成瀬は都を駆け抜ける(新潮社)』から。皆さんご存じ、昨年末に刊行された成瀬シリーズの第3作・完結編。前作、『成瀬は天下を取りにいく』&『成瀬は信じた道をいく』と同様、京大生になった成瀬あかりはやっぱり真っ直ぐだ。京大・達磨研究会など新たな面々を巻き込みながら、ただひたすらに真っ直ぐ自分の道を突き進む。それでも、ほんの少し成長した成瀬の姿がさらに読者の胸を打つ。
続いては、新たな強烈キャラが登場。
青崎有吾の頭脳派ミステリー『地雷グリコ(角川書店)』の主人公の女子高生・射守矢真兎(いもりや まと)。どこにでもいそうなゆるふわ系の女子高生。一見、ちゃらんぽらんにも見える彼女だが、一つまわりと違うのは、とんでもなく勝負ごとに強いこと。そんな彼女が、既存のゲームをアレンジした勝負で難敵たちを次々と破っていく姿は痛快そのもの。醸し出す雰囲気ととてつもない先読みと思考力のギャップがたまらない。ぜひぜひ続編を期待している。
最後は、少し時代と毛色が変わる。森絵都の『デモクラシーのいろは(角川書店)』から。
戦後間もない頃、日本の民主化政策を急ぐGHQが思いついたのが“民主主義のレッスン”。旧子爵婦人の邸宅に集められたのは4人の個性豊かな若き女性たち。裕福な家庭に育った語学堪能な美央子21歳、訛りの抜けない真面目タイプの孝子20歳、あか抜けたお調子者の吉乃20歳、独特の危うげな色気に包まれたヤエ18歳。それぞれの戦争を生き抜いてきた女性たちと、教師役を押しつけられた日系2世リュウ・サクラギの奮闘の物語。“民主主義のレッスン”を通じて女性たちの本質にある芯の強さをリュウは思い知ることとなる。
さあ、ゴールデンウイークも真っただ中。
皆さんも、素敵な彼女たちに出会ってみませんか?
※文中、敬称略
いまから4000年ほど前の古代オリエントでのこと。
ある嵐の夜、フェニキア人の水夫がシリア付近のユーフラテス川の支流で砂地の川岸に上陸する。食事をするため、積み荷だった硝石のブロックの上に鍋を置き、火を焚いて料理を作る。腹は満たされ眠りについた翌朝。ブロックがキラキラ光っているのを見つけ大騒ぎになる。
ローマの歴史家が書き残したガラスの起源だそうだ。
以来、ガラスの美しさは人々を魅了し、アクセサリーや工芸品として珍重されてきた。
4月22日から滋賀県立美術館にて開催されている『武政健夫ガラス彫刻展~光と影が刻む透明の世界』を訪れた。
明るさを抑えた空間のケースの中で、ライトに照らし出され浮かび上がる作品の数々。それぞれが個性を放ちながら自らの存在を主張している。
ビュランという刃のついた工具を用いてガラスの表面に繊細な線や模様を刻み込むエングレービング(engraving)という手法によって描かれた、人物や動植物などの白を基調とした像が、光と影のコントラストによって立体的に映し出される。
その様は一瞥(いちべつ)、透明なガラスの部屋におとなしく閉じ込められているように見える。
しかし、視線が少し動くと、その像たちは一気に躍動し始める。その様は生命を吹き込まれたよう。まさにガラスと光が織りなす魔法だ。
このガラス彫刻をこよなく愛しておられる村田製作所の村田恒夫相談役のご縁をいただき、私も展覧会を拝見させていただくのは今回が3度目となる。
『武政健夫ガラス彫刻展~光と影が刻む透明の世界』は、5月6日まで滋賀県立美術館ギャラリーにて開催されている。これから始まるGW、この機会に足を運ばれてはいかがだろうか。

展覧会初日。村田恒夫村田製作所相談役、武政健夫さんとご一緒に

羊飼いの少年サンチャゴは、ある夜、エジプトのピラミッドに宝物が隠されているという不思議な夢を見る。
そして、羊を売り払い、慣れ親しんだスペイン・アンダルシア地方を離れ、アフリカへ渡り、宝を探すための冒険に出ることを決意する。旅の途中で全財産を盗まれるなど困難に見舞われ何度もくじけそうになりながらも、クリスタル商人の下で働いたり、砂漠を越えるキャラバンへの参加を経て、ついに伝説の「アルケミスト=錬金術師」と出会う。
そんな夢を追う勇気を持った少年が成長しながら、自らの人生を自らの手で切り拓いていく物語が、ブラジルの世界的作家パウロ・コエーリョの『アルケミスト 夢を旅した少年(角川文庫)』だ。
自分自身の運命を信じ、夢や目標に向かって人生を歩んでいく。
その道を進んでいくには思いのほか勇気が必要だ。
慣れ親しんだ状況やものとの決別、周囲や世間からの視線、傷ついてしまうことへの恐れなど、一歩目を踏み出すためには数多くのハードルが存在する。
「人は、自分の一番大切な夢を追求するのがこわいのです。自分はそれに値しないと感じているか、自分はそれを達成できないと感じているからです。永遠に去ってゆく恋人や、楽しいはずだったのにそうならなかった時のことや、見つかったかもしれないのに永久に砂に埋もれた宝物のことなどを考えただけで、人の心はこわくてたまりません。なぜなら、こうしたことが本当に起こると、非常に傷つくからです。」
それでも少年は数々の迷いを振り払い、苦難を乗り越え、歩みを続ける。
そして旅の最後にこう結論する。
運命を追求する者にとっては、人生は本当に寛大だ。
物語を読み進めてたどり着いた結末とこの思いこそが、読む者の心に勇気の灯をともす。
先月、96歳で亡くなったドイツを代表する思想家ユルゲン・ハーバーマス氏。
ナチス支配下の少年時代に自分がヒトラー・ユーゲントの一員だったことを悔い、第2次世界大戦後、民主主義の価値に目覚めた氏は、著書『公共性の構造転換』に代表されるよう、戦後民主主義を構築し擁護する立場から、様々な論客と論争を行うなど、亡くなる直前まで世界に向けて発信を続けてきた。
ハーバーマスは理性を、目的を達成するための最適な手段を選び出す「道具的理性」と、コミュニケーションを通じて相手との間に理解や合意を生み出す「対話的理性」に峻別する。
そのうえで、現代社会における私たちの日常生活は「道具的理性」によって支配、侵略されており、そのことによって数々の社会問題が引き起こされており、その様相を「生活世界の植民地化」と呼んだ。
このように社会において人間的側面が損なわれている状況を回復するためには、人々が「対話的理性」を取り戻すことが必要であり、そこで重要になるのが「公共圏」の概念だ。
「公共圏」とは、国家や市場の権力から独立し、市民が自由かつ対等な立場で、合理的な議論を通じて世論を形成する社会的な対話の空間で、カフェや新聞メディアなどを通じて、私的な個人が公的な課題を批判的に討議し、民主主義を支える基盤として機能する場を指す。すなわち、それは『対話の場』であり『対話の空間』だと言えよう。
その思想は、単なる投票や多数決ではなく、利害関係者が対等な立場で議論し、合理的な合意を目指す熟議民主主義の理論や、毀損しつつある政党、マスメディア、SNSなど市民が自由なコミュニケーションを行える基盤の再考、インターネット・SNS時代の公共倫理など、今日的な課題を考えるうえで多くの示唆を与えてくれる。
民主主義の危機が叫ばれる今日だからこそ、氏の思想や議論は振り返ってみるべき価値がある。
雨にも負けず、桜が満開を迎え始めるなか令和8年度が始まった。
年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず。
唐の時代の詩人の言葉にあるように、花の美しさは変わらないものの、その花を見ている自分自身は時の流れとともに変わりつつある。人生観や仕事への向き合い方もまた、齢を重ねるたびに変わっていく。
新年度が始まるにあたり、毎年、自分自身の中で目標やテーマをいくつか決める。
今年度はその一つとして、日々の暮らしや仕事の中で「余白・すきま」を意識的に生み出したいと思っている。
少し前までは、「何もしない」ことが怖かった。
少しでも時間が余ると、もっと何かできるんじゃないか、何かしなければならないんじゃないかという、強迫観念に苛まれ、結果、やるべき(だと思い込んでいる)ことを詰め込むことで、安心感を得る。そんな日々を過ごしていたように思う。
それはまるで、次の樵(きこり)の男のような姿だったのかもしれない。
あるところに、毎日一生懸命に木を切り続ける樵の男がいました。
樵は決して休む間もなく木を切り続けますが、斧は刃が欠けてボロボロ。日を追うごとに切り出す木の本数は減っていきます。
見かねた人が「斧を研いだらどうだ?」と声を掛けます。
すると樵は答えます。「忙しくて、斧を研いでいる時間なんてないんだよ!」
花をゆっくりと愛でる。
今年は、そんな「余白・すきま」を創り出す勇気を振り絞っていくと胸に誓う。